【画像あり】錦鯉・渡辺&長谷川の若い頃の姿がイケメンすぎる!

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お笑い芸人
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お笑いコンビ「錦鯉」は、2021年のM-1グランプリ優勝を機に一躍全国区の人気者となりました。ボケ担当の長谷川雅紀さんとツッコミ担当の渡辺隆さんは、共に長い下積み時代を経て、遅咲きの成功を掴んだ苦労人として知られています。今回は、そんな二人の若い頃に焦点を当て、彼らの過去や意外なエピソードを深掘りしてみましょう。

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錦鯉・長谷川雅紀の若い頃:イケメンホスト時代と下積み生活

お笑いコンビ錦鯉(にしきごい)のツッコミ担当、長谷川雅紀さんは、1971年7月30日生まれ。北海道札幌市出身です。現在は「遅咲き芸人」として知られていますが、その裏には想像を絶するほどの壮絶な下積み生活と、ちょっぴり驚きのホスト時代のエピソードがあります。

苦しい家庭環境とホスト時代の経験

長谷川さんの父親は鮮魚店を営んでいましたが、事業に失敗し、生活は一変。白石区にあるアパートでの厳しい生活を余儀なくされました。そんな中、20歳のときに始めたのが、札幌のホストクラブでのアルバイト。当時の源氏名は、なんと「マツモトキヨシ」。あのドラッグストアと同じ名前だったため、名刺を渡すたびにスベるという自虐エピソードも。

引用元:https://coco-diary.com/nishikigoi-hasegawa-ikemen/

ただし、当時の写真を見ると、髪はフサフサで眉毛は太く、顔立ちも整っており、「イケメンホスト」と呼ばれるにふさわしいルックスだったのは間違いありません。現在の風貌とのギャップに驚く人も多く、ネット上では「若い頃は普通にかっこいい」「モテそうだった」と話題になることもしばしばです。

舞台との出会いと笑いへの転機

ホストを辞めた後、アルバイト先で出会った同僚が劇団員だったことをきっかけに演劇の世界に興味を持ちます。そこから舞台に立ち、人を笑わせる喜びに目覚め、23歳でお笑いの道へ進む決意を固めました。

しかし現実は厳しく、華やかな世界とは程遠いものでした。生計を立てるために、牛丼チェーン店で週5日の深夜勤務を10年間も続けることになります。家賃3万円の立川のアパートに住み、電気が止まるほどの貧乏生活。ネタ作りどころではない日々の中でも、夢を諦めずに挑戦を続けた姿勢は多くの人に勇気を与えています。

錦鯉・渡辺隆の若い頃:老け顔と苦労の歴史

錦鯉のボケ担当、渡辺隆さんは1978年4月15日生まれ、東京都出身です。高校卒業後に中央学院大学へ進学しますが、中退。その後、吉本興業のNSC(養成所)に入所し、本格的に芸人としての道を歩み始めます。

若くして訪れた悲劇と病気

芸人として活動する中、2000年には最愛の母親を交通事故で亡くすという大きな悲劇に直面します。当時22歳。この出来事は、渡辺さんの精神的支柱を失うほどの大きなショックであり、その後の人生に深く影響を及ぼすことになりました。

引用元:https://lite4s-blog.com/nishikigoi/

さらに、25歳という若さで痛風を発症。痛風は通常40代以上の中高年に多い病気とされていますが、若くして発症した背景には、ストレスや生活習慣の乱れも影響していた可能性があります。健康面の不安を抱えながらも、それを言い訳にせず、芸人として前を向いて歩き続けました。

老け顔と向き合う日々

渡辺さんは、若い頃から「老け顔芸人」として知られていました。実年齢よりも上に見られることが多く、同年代の芸人と並んでも年上に見られがち。しかしこの”老け顔”が、後に彼の個性やキャラクターとして武器になるとは、当時誰も予想していなかったはずです。

錦鯉の結成と奇跡のM-1優勝

2012年、二人は共通の知人による飲み会で出会い、渡辺さんからの誘いでコンビ「錦鯉」を結成。当時、長谷川さんは41歳、渡辺さんは34歳という異例の遅咲きコンビです。ともに長い下積み時代を乗り越えてきた苦労人同士。お互いの境遇を理解し合い、支え合いながら活動を続けました。

そして結成から9年後、2021年に行われたM-1グランプリでついに優勝。この快挙は、お笑いファンのみならず、夢を追い続けるすべての人にとっての希望の象徴となりました。

まとめ:苦労を乗り越えた錦鯉の魅力

錦鯉の長谷川雅紀さんと渡辺隆さんは、それぞれの若い頃に多くの苦労や経験を積んできました。長谷川さんのホスト時代や下積み生活、渡辺さんの老け顔や家族の悲劇、若年での痛風発症など、彼らの過去は決して平坦なものではありませんでした。しかし、これらの経験が現在の彼らの魅力や芸風を形成し、多くの人々に愛される理由となっています。今後も錦鯉の活躍から目が離せません。

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